: 東方蛇行録

1-1 ある日、どこかで拾い物 

 雨だ。
 桶に川の水を汲み上げ、ついでに携帯の水袋も補充していた時だった。頬にあたる滴に気が付き空を見上げる。
 雲は広がっていたが、たくさんの雨が降りそうなどんよりとした黒さはなく、単なる通り雨のようだった。
「うわっ、冷てー」
声に振り向けば、1輪の菫の花をそっと懐に抱きながら少年が同じく空を見上げていた。
 摘んだばかりの青紫の花はまだ花弁を広げて生き生きとしている。
「また摘んだのかい。好きだね、あんた」
呆れ交じりに声をかけると、少年は顔を顰めて言葉を返す。
「うっせー、ばばぁ。俺の自由だろ」
「悪いだなんて言ってないよ」
もっとも言葉遣いの方はかなり悪いから、いい加減直して欲しいとは思う。
 日が昇る時間だから、空の彼方は眩しいが、森の陰になっているこの場所はまだ暗くて手元も不案内だ。小さなランタンを置いていなければ、少年が何を持っているかも見えなかっただろう。
 少年も、この少女も似たような軽装をしている。
 半袖の白いパーカーの下に黒のタンクトップを着て、白の細見のパンツを穿き、腰にはウェストバック、左腕には手の甲から肘のあたりまで覆う黒い籠手を身に着けている。  しかし格好は似ていても二人に対する印象は全く違う。
 少女は、目にも鮮やかな赤いセミロングの髪で、やや釣り気味の鶸色の目をしている。化粧こそしていないが、数年後には色香の漂う美女になることは間違いなしの容貌だ。同年代と比べればメリハリも出てきた体系は、軽装のおかげで惜しげもなく晒されている。つまりは美少女ということだ。
 対して少年は、雪のように真っ白な短い髪で、優しげな榛色の目をしている。全体的にはまだ肉もついていない小柄な体系だが、肌が白くても線の細い印象は受けない。右手には先ほど摘んだ菫の花を持っているが、左手にはとても長い剣の束が握られている。刀身が収まっている鞘は肩に支えられる形だが、片手で持っているその姿は頼もしさも感じるものだった。
「ライア。早く自分の分の桶に水汲んじまいな」
ウェストバックの紐に、水袋を固定させながら少女は言う。
「エルデ、自分の分だけかよ」
2個持ってきた桶の片方しか満たされていないことに気が付き、ライアと呼ばれた少年は不平を漏らす。
「当たり前さ。何でわざわざあんたの分まで汲まなきゃならないんだい? 体鍛える気あるんなら、水汲みの一つや二つごちゃごちゃ言わずにやんなさい」
「ちぇ、鬼ばばぁめ」
剣をそっと地面に横たえてから、ハンカチを取り出して大切に菫の花を包む。どのみち摘んでしまったので、あまり長くは持ち歩けない。押し花の要領で、バックに入れていた薄い本の間に挟んで、バックにしまう。
その様子をやれやれとエルデは見守る。
口の悪さを除けば気のいい少年だ。口喧しく言っても反発するだけだろう、と放っておいたせいかいつまで経っても治らない。
ライアも補給するつもりなのか、腰から下げている水袋を紐から外して川の傍へよる。
桶を川に浸そうとしたとき、木片が流れてきたのにライアは気が付いた。流れてきた方へ視線をやれば木片はまだまだ流れてくる。もっと川上へ視線を投げれば、大きな箱や袋が流れてくる。
「なんだい、あれは」
 異変に気が付いたエルデも川の流れを見つめる。
 多少の雨があっても川が荒れるほどではない。なのに川からざわめきが聞こえるのだ。
「ライア逃げるよ。精霊が騒がしい」
「へ?」
「案内人の心得第一! 異変を察知したらまず逃げる。ぼさっとしない」
エルデはライアの桶を無理やり奪って汲み上げた。それからまだ事態を呑み込めていない少年に喝を入れる。
「死にたくなきゃ、さっさと森に逃げな。あたしは逃げるよ」
必死で言い募るのに、ライアはきょとんとするばかりだ。むしろ首を傾げていたりする。
 風に、木々に、水に宿る精霊の声がいつもの囁きではなく、悲鳴に聞こえるのにエルデは動けないでいた。いつもなら異変を感じたらまずは逃げていたのに、今日に限ってはその条件反射が働かない。きっと弟分のライアを守らないと、という思いが先に立ってしまったのだ。
 ライアの耳を掴みもう一度エルデは言う。
「逃げるんだよ。あんたには精霊の声が聞こえてないのかい!? 」
「いてーよ、クソばばぁ。引っ張んな」
ライアは顔を顰めてエルデの手を軽く振り払った。自分の分の桶を掴みとると、地面に置いた剣を拾いに立ち上がる。
 そののんびりとした動作にエルデは焦れる。しかし状況確認は怠らない。時折川上へ目を向け、流れてくるものを確認する。
(やけに貴金属が多いね)
普通の人が川に落ちてしまいました、という事態ではないことが伺える。
 やはり一人ででも逃げるべきだったかと後悔し始めた時に、人の頭を見つけた。
 浮いている木片に上半身を預けるようにうつ伏せで掴まっている。下半身は水の中なのでよく見えないが、栗色の短髪と全体的な雰囲気から男だろう。
 たくさん浮いている木片やおそらく彼の荷物であろう物が、軽く男にぶつかっては跳ね返って遠ざかる。その些細な衝撃に、男の上半身は掴まっている木片からずれてするりと川の中へ沈んでしまう。
「助けないと」
一部始終を見ていたエルデは、今度は体が反応するままに動いた。ライアがあっけにとられている間に川へ飛び込む。



 水の中は暗く、またたくさんの荷物が流れているため落ちた男の姿が見当たらなかった。
 エルデは早くない川の流れに感謝しながら、川を横切るように泳ぐ。小さな精霊の子どもたちが導いてくれるおかげで、エルデはすぐに男を見つけた。
 両手でがっちりホールドして、岸に向かうために足を動かす。
 しかしただでさえ誰かを泳いで運ぶのは大変なのに、ましてや気を失っている大の男となると容易ではなかった。
 足を動かすのに男の重みでずるずる底の方に引きずられてしまう。元の岸へ折り返したいがまったく進まない。あれほど緩やかに感じた川の流れでさえ大きな力のうねりのようだ。
(息が……)
 潜ってから息継ぎせずに男を抱えているため、エルデの肺も苦しくなってきた。もがくように必死で足をばたつかせて浮上を試みる。そのかいあってなのか、水がふわっと動き水面が近くなったような気がする。
(ててててて、違う。あたしじゃない)
男を背面から抱えているエルデは、体の位置をずらし男の正面から支える存在を見つける。
 中性的な雰囲気で長く豊かな藍色の髪は水を漂い、纏う生成りの衣も舞うようにふわりと浮いている。
 彼――あるいは彼女はエルデの視線を受け止め、顎で川面を示し、それから両手を男ごと持ち上げるように突き上げた。そうするとあれほど重かった水の流れが嘘のようで、エルデは男を抱えたまま水面から顔を出した。ゲホゲホと息を吸って吐いて吸って吐いてを繰り返す。ようやく肺が落ち着いたくらいで援護を呼ぼうと岸の方を振り向くと穏やかならぬ状態であった。
 当然あのまま呆けたままだと思っていたライアが、長剣を振り回して山賊のようななりをした男たちの相手をしていた。だががっしりとした体格の強面たちと、まだまだひょろっこく自分の剣に振り回されている少年とでは圧倒的に力の差があった。たまたま長剣というリーチがあるから距離が保たれているだけだ。
 エルデは男を抱えたまま、そっと水面に近寄る。
 ライアに注意が寄っているため、まだ気づかれていない。
 川岸に近い浅瀬に男を仰向けに置いて、エルデは腰元のバックを探る。それほど大きくない黒塗りのブーメランを2本取り出し、身を低くして距離を縮めた。
 慎重に音を立てないよう、状況を探る。
(みんな獲物は剣かい。荒事には慣れてるって感じだね。長引くとこっちが不利だ)
 ライアの必死さとは雲泥の差で、男たちは薄笑いすら浮かべていた。
 エルデは体制を維持したまま、腕を思い切り振りかぶりブーメランを1本投げた。するとブーメランは真っ直ぐに男たちとライアの間を駆け抜ける。
 彼らが振り向く前にエルデは動いた。
 もう1本のブーメランも投げつけ、彼らが避けている間に距離を詰める。そして腹に見事な飛び蹴りを食らわせた。勢いのままに一人は倒れた。手に持っていた剣はカランと地面に落ちた。
「あんたら一体、ライアに何の用だい! 」
すかさず剣を奪い構えながらエルデは尋ねる。
 重みのある両手剣だが、ライアの剣ほど長くはない。握りが合わないのは他人の剣だからだろう。それと水から上がったままの為に、全身ずぶ濡れで余計に握りにくくなっていた。
 ライアのほっとした表情が垣間見えて、エルデも一瞬安心する。
 エルデの不意打ちには動揺したものの、男たちはすぐに体制を立て直しライアだけではなくエルデにも剣を向ける。
左腕の籠手で剣を受け止めつつ、男の脇腹に剣を走らせ素早く引く。別の男が横から切りかかるが、返す切っ先をそちらに向け剣の軌道をそっと逸らす。左腕で受けている剣はそのままに体を回転させて衝突を避ける。ついでに最初に切りかかってきた男の鳩尾に肘鉄を食らわす。腕にかかる力が緩んだところで、思い切って男から離れて間合いを取る。
ライアの危なっかしい動きと違い、さすがは慣れているといったところだろう。エルデの動きに迷いはなく、体を反転させるたびに赤い髪が舞った。
 男たちは何を言うではなくただ無言で切りかかってくる。
(目的は何だ。あたしらを狩りに来たようには見えないね。まったく。あたしが潜っている間に何があったっていうのさ)
 できるだけ致命傷を与えないように、しかし動きを封じるように戦うエルデと、殺る気満々の男たちでは力の差は歴然だ。エルデはすぐに防戦一方になる。唯一の幸いは日が昇ってきて、相手の顔、動きが見やすくなったことだろう。同時にこちらの顔が割れてしまう危険も孕んでいる。
 森が朝を迎えた。それだけで夜の静けさから、目覚めの騒がしさへ変わる。遠くで鳥の囀りが聞こえる。それから獣たちが動き草が擦れる音も。そこに不釣り合いな金属がぶつかる硬質な音だけが平時と違うと物語る。
「あんたら本当に一体なんなんだい。目的がないならさっさと引いとくれ」
剣の束を鳩尾に埋めつつ、素早くしゃがんで足払いをかけた。切実な叫びとは裏腹に、エルデは確実に一人ひとり落としていく。
「殺戮がお好みなのかい。悪趣味だね」
「エルデ、何かが向かって来る」
少しずつ距離を縮めながらライアが知らせる。さっと視線を投げれば、くたびれきって剣を持つのも辛そうだった。咄嗟に持っている剣を投げて、背後から切りつけようとしている男の肩に命中させる。
「馬鹿! 警告しにくる暇があったらさっさと逃げなクソガキ。あたしは一人で大丈夫だから」
「はぁ? この状況で何が大丈夫っていうだよ。馬鹿はあんただろ」
 ライアは男たちの上を跳んでエルデの前に着地する。軽やかな身のこなしだった。エルデは目の前に降りてきたライアの胸倉を掴んだ。そして力の限り川へ向かって投げ飛ばした。
「ちょっと待ってえええええええ」
一瞬の嘆きもむなしく、ライアはチャポンと音を立てて川に落ちた。それからエルデが浅瀬に寝かせていた男を引きずり込むように川へ飛び込むのはすぐだった。
 


2013.04.14
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