: 東方蛇行録

1-2 赤・藍・白・栗・黒・黒

「いつものことですが、無茶をしますね」
女にしては低く、男にしては少し高い声が耳元で聞こえた。水の中でゆったり漂うような、目覚めの居心地の良さにたゆっていたくなる。そっと頬に触れる手のひらが離れるのと同時にエルデは目を開く。
「フルス。小言はいいから助けとくれ」
 よく知る相手のため、気安くお願いができた。
 水の中で会話ができるのにも驚くことではない。二人にとってはいつものこと。
 フルスのローブのような服と藍色の髪がふわりと水中を舞う。少し骨ばった手に抱え込まれ、エルデはフルスの懐に収まる。赤い髪がそっと梳かれる。
「白い子ならとっくに拾って保護してますよ」
「ライアのことだね、ありがと」
心配事が一つ減ってホッとして、笑みが漏れる。
「それからあなたと一緒に飛び込んできたゴミは安全地帯に流しときましたよ」
「ゴミ言うな! 相変わらず性格悪いね」
「私はエルデが無事なら他がどうでもいいんですよ。あなたならいつでも喜んで助けますよ」
 これが別の人だったら赤面モノのセリフだろう。しかし聞きなれているのか、エルデも歯牙にもかけない。
「ほんとに精霊ってやつは極端だね、まったく」
「全として在る我々は世界そのものですから。個である世界の片鱗であるあなたたちと存在意義がそもそも違います。何より、今話している私が、私という個を持っているというのは錯覚で、私は」
「あー、ストップストップ。今あんたの哲学授業を受けている場合じゃないんだよ。その話は今度聞くから」
長くなる話を無理やり遮る。きっと止めなければ、いつまでも永遠と世界について語ってくれるだろう。
 エルデは身じろぎをして、フルスの腕から離れる。
 周りに目を向ければ光がまばらに射し込まれていて、きらりと反射するものに目を向ければ、ずっと川を流れている貴金属が浮いていた。
 泳いで拾えば、直径3センチはありそうな円いメダルだった。頭が3つに分かれていて、足も3股の狼が描かれていた。首には月桂樹の輪がかけられている。裏を返せば、中央に足形が刻まれ、その周りを細かい字が埋め尽くしていた。薄汚れているが、元は銀色に輝いていたのだろう。
(あの人の持ち物かも)
上着のポケットにしまい込み、エルデはフルスを振り返る。
「助かったよ、フルス。ありがとう。悪いけど地上に戻りたいんだ、力を貸して」
「はい。私のエルデ。力を貸しましょう」



「保護」と「流しておいた」という言葉の差異通り、ライアと彼の青年の状態は全く違った。
 ライアは木の間に掛った蔓のハンモックの上に横たえられており、どこから拾ってきたかわからない布をかけられていた。対して青年は、他の貴金属や木片の残骸とごみよろしく状態で、岸の端へ流れ着いていた。顔は水面を出ているが、体は水に浸かっている。体が冷え切っているのか、顔から血の気が引いていて、唇が真っ青だ。
「あんた。ちょっとあんたしっかりして! ちょっと」
引きずるようにして岸から引き上げ、体温を分けるように抱きしめる。体がひどく冷たい。
 エルデは一旦青年を草の上に横たえて、木をよじ登る。そして健やかな寝息を立てているライアの上掛けを取り去り、蔓を大きく揺らしてライアを地上に落とした。そして自身もすぐに木の上から飛び降りる。当然とても痛い目覚めにより、ライアは意識を取り戻した。
「なんか痛い」
「怪我はないかい?」
痛い原因は敢えて言わずに、エルデは尋ねた。ざっと見た限り大きな怪我はなさそうだ。ライアも肩や腕を回しながら、怪我の有無を確認する。
「姐さん無事?」
「あたしは大丈夫さ。それよりあんた、平気なら手伝っておくれ」
「へ?」
「人手が必要なんだ。ひとっ走りして馬鹿男を呼んできて。それから休憩小屋に運ぶからその準備も」
 エルデの視線は、倒れている男に注がれる。つられてライアもそちらを向く。
栗色の髪がぐっしょり濡れて、顔に張り付いていた。表情は見えなくても酷く体が冷たくなっているのは見て取れた。
 確かにエルデ一人、いやライアと二人でも運ぶのは大変だろう。しかし大人しく言うことを聞くにはライアの性根はいささか捻くれていた。
「じ、自分ち連れて行けばいいじゃん。男連れ込んだくらいで、とやかく言う村じゃないだろ」
「人間の男だよ。見てわからないのかい? 森が入れないさ」
 森――
 ライアは一瞬何のことかわからなかったが、すぐに思い至った。それ故に顔を顰める。
「ちっ。行ってくりゃあいいんだろ。アニキ呼んでくるからじっとしてな」
「ありがとう。助かるよ。あたしらは小屋に向かうから、あいつには合流するよう言っといて」
「はいよ」
ライアはさっと立ち上がると、森の中へ駆けて行った。
 エルデは青年の腕を取り、自分に覆いかぶさるようにしておんぶする。ずっしりとした重みに、足元がよろけるが歯を食いしばってこらえる。背中にべったりとした冷たさを感じるが構っていられなかった。
「頑張っとくれ。絶対、絶対助けるからね」
一歩、一歩と足を動かすが、体格差のせいでどうしても引きずってしまう。
精霊たちの笑い声が聞こえるがそれどころではない。急がないと命に係わる問題だった。
「頼むよ、小屋までの道を教えて」
話しかけると精霊たちは嬉しそうに近寄ってくれるが、さらに気を引こうと目の前でぐるぐると舞うばかりで教えてくれるものはいなかった。初めは森の木々や、宙を漂う精霊だけだったが、やがて川からもひょこひょこと水の精霊も顔を出し始めた。
「急いでるんだよ。今は構っている暇なんか無いんだ」
水の流れを横目にとりあえず上流を目指しているが、どこまで流されたのかエルデはわからなかった。
 首筋にかかるわずかな吐息がいつ途絶えてしまうのか。そればかりが気がかりだった。青年から滴る水のせいで、エルデの体もじわじわと冷えてきた。
 自分一人なら、あるいはライアと二人ならもっと違っていただろう。たとえ窮地に陥っても、森に入ってしまえば難は逃れられる。そしてきっと精霊たちは助けてくれるだろう。精霊は自分たちが見える存在には優しいから。
 それほど歩いていない距離だったが、目の前に影が差した。
 音はなかったが、精霊たちがさらに歓喜したのがわかった。
 エルデが顔を上げると一人の青年が立っていた。
「誰だい、あんた」
見慣れない顔だった。前髪の一筋だけが白く、長くない黒髪。袖なしの黒いコートに、ポケットがたくさんある黒いズボン。むき出しの白い腕は筋肉質で体格は逞しいが、若草色の双眸を配した顔立ちは女性に負けないほど綺麗だった。
 しかしエルデは他人の美醜には興味がなかったため、ただただ突然現れた青年を警戒した。
 青年は朝の清々しさがよく似合う微笑みを讃えていた。
「お邪魔をして申し訳ありません。貴方には危害を加えるつもりはありませんので、そのように警戒されなくても大丈夫ですよ」
「あたしには、ってことはこの人には加えるってこと? 」
 エルデの問いには答えず、青年はただ笑うだけだった。
 一歩、一歩とゆっくり近づいてくるが、人ひとり背負っているエルデは身動きが取れず立ちすくむしかなかった。
(逃げる、いやそれよりも頼るべきなの? )
 背中の青年のおかげでどんどんエルデの体自身も冷えていっていた。それほど歩いていないのに、支える足が辛かった。背丈はそれなりにあるものの、己が非力であると痛感せずにはいられなかった。
「助けて差し上げます」
真横に立ってエルデの背中から青年を一旦おろし、そして軽々と担ぎ上げた。ふっと軽くなった体に一瞬ほっとするが、すぐに我に返って振り返る。
「ちょっと」
「彼に死なれるのは、僕としても都合が悪いのです。お気になさらずに」
相変わらず顔は笑っているのに、不穏な物言いだった。左肩に栗毛の青年を担いだ黒髪の青年は、呆然としているエルデの手を右手でそっと引く。
「どちらへ運べばいいでしょうか? 」
手を握ったまま歩き始めたので、エルデもつられて歩き始めた。



 黒髪の青年はリューゲと名乗った。年は言わなかったが、二十歳くらいに見えた。物腰や言葉遣いがとても丁寧で、丁寧すぎてエルデにはむず痒い感じがした。
「頼むから普通に喋ってくれないかい? あたしもお上品な人間じゃないから、もっと砕けた感じでいてくれないと肩がこっちまうよ」
「そうは言いましても、僕も普通に話しているだけですよ。もうこれは身に染みて取れないのですので、どうかご容赦を」
「まったく埒が明かないね」
 左手は相変わらず青年の手の中だ。男一人を担いでいるのに、よろけることはない。呑気に話している場合ではないが、リューゲは急ぐつもりはないようだ。そのことにエルデは焦れるが、リューゲの協力は断ることができない。
 悪い人ではないようだが、怪しさ全開なのでどうしても気が緩められない。
 逞しく屈強な腕を見れば、振りほどける気もしない。
(厄介なのに引っかかった気がするよ。ったく、馬鹿ども早く来てよ)
 口に出さないように気を付けながら、エルデはひそかに罵る。
「彼は厄介な人間です」
 リューゲが不意に言った言葉に、エルデの意識は引き戻される。見上げればそれは嬉しそうに若草色の目を細められた。それと共に周りに漂っている精霊も嬉しそうに身を翻して踊る。精霊は行為を寄せた相手に影響されやすい。だからリューゲがとても喜んでいることが分かった。しかし眉根を寄せてすぐに困った顔をした。
「関わればきっと後悔しますよ」
「どういうこと? それって見捨てろって言ってる?」
「親切で申し上げているのです」
告げられた言葉にエルデは一瞬の苛立ちを覚えた。
睨むように、視線を合わせる。それでもリューゲの眼差しや態度が変わることはない。手は相変わらず優しく、力強さを隠しながら引かれる。
「だとしても、それをあんたに言われる筋合いってもんがないよ。別に人の事情に踏み込んむつもりはないさ。知らない方が幸せってこともあるしね」
(あの人は人間で、関わるべきじゃないってわかってるさ。わざわざ言われなくたって)
 話は終わりとばかりに、エルデはそっぽを向いた。
 居心地の悪い空気を残したまま、しばらく歩いたところに小さな小屋があった。家というには少し狭い気がするが、それほど古くも見えなかった。
 窓も扉も閉まっていて使われている雰囲気はない。
「あれがこの森の休憩所代わりのところだよ。中に寝台くらいはあるから」
簡単に説明して、エルデは少し先を歩くように前に出る。しかし左は繋がれたままのため、それほど進めなかった。
「……そろそろ手を放してくれないかい」
振り返ってリューゲを見ると、キョトンとしていた。首を傾げてさえいる。
(こいつはーーー)
天然か計算か、そんなのはどうでもよかった。エルデは力を込めて思いっきり手を引くが、そこは力の差で敵わなかった。
「あんたわざとやっているのかい? あたしは手を放してって言ってるの」
 呆れ半分、苛立ち半分。そんなエルデの心境を察してか、リューゲは火に油を注ぐ。つまり、
「このままではいけませんか? 」
と言ったのだ。
 これがライアならば頭をはたいて「何バカなこと言ってんだい」と言って済むだろう。そもそも力の差もあまりないので、無理やり引きはがせる。
 フルスならばお願いすれば快く放してくれる。
 さてリューゲに対してはどうしたら放してくれるだろう。空いている右手でこめかみを抑える。
 結局エルデの願いは第三者の登場によって叶えられた。
「てめえら、何やってんだ」
口の悪さはライア以上だが、ライアより頼もしいがっちり感のある青年が小屋の中から出てきた。波打つ黒い髪を無造作に一つにまとめ、蛇のように鋭い金色の目をエルデたちに向け、黒い肌によく似合う極彩色の服をだらりと着て近づいてくる。
「キーファ、あんたまたそんなところで。いや、今はそれどころじゃないから、手伝っておくれ」
「おうおう、一丁前に男を連れ込むたあ、やるじゃねえか」
「状況見て言いな。人が死にそうなんだよ。リューゲ、あんたもその人さっさと部屋に運んで」
 キーファの登場で、リューゲはようやく手を放して、栗毛の青年を担いだまま小屋へ入っていく。


2013.05.10
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